ある夏の蒸し暑い日。麦藁帽子を被って歩いている彼女と、偶然に出会った。
 憂いを帯びた瞳に私が映る。私は、全身の血が沸騰しそうなほど嬉しくて興奮した。実に、三ヶ月ぶりの再会であった。
「世良君、久しぶりね」
「お久しぶりです。京子さん」
「ここから家が近くなの、螢も喜ぶし寄って行かない?」
 恋しい人の誘いを断る馬鹿はいない。私は、大きく肯いて見せた。

 彼女の家は質素な和風住宅だった。玄関には、幸せそうに微笑む京子と其の想い人のツーショット写真が可愛らしい額に入れて飾られていた。
 京子が仕事から帰ってくるたびに、この写真に微笑みかけているのかと思うと、床に叩きつけてやりたくなる。もし、京子が映っていなかったら、実際にやっていたかもしれない。もちろん、事故を装ってだが。
「お母さん、お帰りなさい」
 私が玄関の写真とにらめっこしている間に、当時小学生だった螢が奥の和室から京子の元に駆けつけた。
「ただいま、螢。今日は、世良くんが遊びに来てくれたわよ」
「世良にいちゃん、久しぶりー!」
「三ヶ月ぶりだな、螢」
「うん。あっそうだ。世良にいちゃんにプレゼントがあるんだ」
「プレゼント?」
「うん。お父さんとお母さんとで旅行に行ったんだよ」
「お父さんと・・お母さん・・・・?」
「実はね、昨日まで章吾(しょうご)さんと、旅行に行ってたの」
 京子は、少し恥らいながらも幸せな微笑みを浮かべた。
「三ヶ月間も、ですか?」
「ええ。もちろん章吾さんはお仕事をしていたけど。避暑地にね、三ヶ月間ペンションを借りてそこで暮らしてたのよ」
「とっても、空気が綺麗だったよ。はい、これお土産」
 螢の小さい手には、軽井沢のキーホルダーが握られていた。
 軽井沢に行ってきたのか・・・・。人目を憚る恋には打ってつけの場所だな。
「ありがとう、螢」
「こんな所で立ち話もなんだから、上がってちょうだい」
 私は、奥の六畳の部屋に案内された。ここにも、奴の写真はあった。今度は、京子と螢と奴の写真だ。螢の成長ぶりからいって、おそらく今回の旅行で撮った写真だろう。
 幸せな家族写真。一見そう見える。
「よく、三ヶ月間も家を空けられましたね、彼」
「・・・・・。出張ってことにしたみたいね。世良君、飲み物は麦茶で良いかしら?」
「ええ、ありがとうございます。ばれなかったんですか?」
「わからないわ。でも、この三ヶ月間は邪魔されなかった。それで十分よ。それ以上は望まないわ」
「なぜ?」
「愛しているからよ」
「私だったら、愛している人とずっと一緒に居たい。其の人が、他の人と笑っているのを見るのさえ嫌だ」
「あら、世良君の恋人になる人は大変ね。でも、幸せね、きっと」
「わからない。それが幸せだと思うのなら、何故・・」
「だから、私が章吾さんを愛しているからよ。とても愛しているからなの」
「それは、理由になってない。そんな理由じゃあ、わからない」
「彼と別れたくないのよ」
「っ・・・」
 必殺の一撃と言うやつだった。
 幸い、私の傷ついた表情は、顔を逸らした京子には映らなかった。
「さあ、もうこの話は止めましょ。螢が話についていけなくて、むくれているわ」
 京子は、脹れっ面の螢を愛しそうに抱き寄せた。
「私じゃ、駄目なんですか?」
「え?」
「私だったら、貴方の側にずっと居てあげる。貴方だけを愛せる」
「世良君?」
「私では駄目ですか? あと2年で結婚できる年になります。私では、貴方の恋人にはなれませんか?」
「・・・・。ありがとう、世良君。でもね、章吾と貴方は違うのよ。それに、私に貴方はもったいないわ。もっと、可愛くてお似合いな人がいるわよ、ね」
「駄目、なんですか」
「あなたは、章吾ではないもの」
「なんでっ、なんで、章吾さんなんですかっ!! あの人は、奥さんがいるじゃないですかっ。しかもっっ」
 バシンッという音と共に、私の頬に痛みが走った。
「・・・・・・・・」
「お母さん?」
「私は、本気なんですよ。本気で貴方を・・・」
「私だって本気よ。本当に章吾を愛しているの。奥さんがいようと関係ないの。彼が私を愛していると言ってくれればいいのよ。それ以上は、求めていないのよ。だって、それで十分なんですもの。私と彼のことはほって置いて頂戴。もう、こんな話をさせないで、螢の教育上よくないわ」
「この話が螢の教育上よくないとわかっているのなら、この生活だって同じでしょう?」
 あの時、私達は子供だった。人を追い詰める時は逃げ道を一つぐらい残しておくべきだという言葉を忘れていた。二人とも、恋に溺れた若者だったのだ。
 相手を傷つけている事はわかっていても止まらなかった。堰を切ったみたいに、流れて来る章吾さんへの恨み言。それが、京子を傷つけることに繋がっていることは分かっていた。恋愛は、正論で押したって通るものではないと言うことも分かっていた。でも、其の時の私の武器は、モラルと言う言葉だけただった。京子と章吾を離す為の手段は、モラルに訴えるだけだった。
 『不倫はいけない』、なんてチープなセリフなんだろう。それでも私は、其のことを必死にそのことを訴えようと頑張っていた。このあと、自分の方がモラルに反することをするというのに・・・。

記憶10へ  戻る